どうも、tsuyoshi(@T_Shimodaira)です。久々のブログ更新です。
今回の記事は、自分の良き友人の一人である(と少なくとも自分は思っている)、じんぺーさん(@hitsuwari5th)が書いたnoteに対するアンサー記事になります。
書いていたらかなり長くなってしまったのですが、是非じんぺーさんの記事と合わせて是非読んでいただけたらと思っています。
大学のお金関係で一番”キツさ”を感じるのは境界層
まずは大学進学におけるお金の話について答えていきましょうか。
じんぺーさんの記事では授業料免除の話について触れていましたね。
自分は、授業料補助を受けられる人が潜在的にどれくらいいそうなのか、という少し俯瞰的な視点から始めて、じんぺーさんの記事では触れられなかった選択肢や制度について触れていこうと思います。
授業料免除を受けられるかの境界層は意外といるのではないか
どのような補助に関しても言えることですが、 “キツさ” を感じるのは境界層に当たる人間でしょう。
授業料減免を受けることができるかのボーダーは世帯収入500万~700万円と言われています(ここの計算は割愛します)。
多くの人はここで日本の平均世帯収入がどうなっているのか調べると思うので、そのグラフを載せておきましょう。
(引用:厚生労働省, 2019年 国民生活基礎調査の概況, リンク)
世帯収入700万円近辺をボーダーとして仮定すると、7割近い世帯で授業料減免を受けられることになります(もちろん、世帯の構成や大学の基準によって授業料減免を受けられるかどうかは異なります)。
しかし、ここで見るべきはこのグラフではありません。
大学・大学院に進学する年齢、すなわち親の年齢が40代~50代近辺の方の世帯年収に照らして考えていくべきでしょう。
世帯主の年齢別の世帯収入を示したグラフが以下のものになります。
(引用:厚生労働省, 2019年 国民生活基礎調査の概況, リンク)
グラフを見ると、世帯主の40~49歳の方が世帯主の家庭で694.8万円、50~59歳の方が世帯主の家庭で756.0万円になっています。
先ほど、授業料免除を受けられるかどうかのボーダーが世帯収入が500万円~700万円ということを述べましたが、こうなると、半数近くの境界層の方がいるのではないのかな、と思われます。
※世帯年収の詳しい分布が分からないので、正規分布を仮定しています
そして日本の同年齢での大学進学率は50%程度です。
これらの事実から総合的に推測すると、境界層の付近の方もかなりいるのではないでしょうか。
つまり、授業料免除をギリギリで受けられなくて苦しい、というような方もそれなりの数の方がいるのではないかという推察ができてしまいますね。
生活費の捻出の苦労もある
授業料の免除が通っても、生活費の捻出に苦労している場合も大いにありうると思われます。
実際、「授業料の免除が通ったが、大学に行くこと自体に親が否定的であり、生活費は自分で稼がなきゃいけない」という人も少なくはありません(親の進学の関与の影響については数多くの研究がなされています)。
そして、奨学金を活用してもその生活がかなり厳しくなるケースも知られています。
そのような人に対する支援策というのは、正直充実していないな、というのが自分の正直な意見です。
貸与型の奨学金は数あれど、それらは将来的には返済が必要な負債としてのしかかってきます。
「奨学金が借金である」という将来へのリスクも相まって、大学進学を断念する人もいるのではないでしょうか。
RAやTAの制度の存在
金銭面での補助といいますと、RA(Research Assitant)やTA(Teaching Assitant)の制度があります。
これは研究活動や大学の授業の補佐を行うことで、アルバイト的に収入が得られる制度のことです。
大学や研究機関から雇用される場合もありますし、教員の方の研究費から雇用される場合もあります。
大学や研究機関にその制度がなくても、教員の方がRAとして雇用してくれる場合もありますので、大学院進学を諦めたくない人は一度問い合わせをしてみてもよいかもしれません(ただし、相応の熱意と知識・能力は必要ですが)。
しかしながら、これは大学院生を主に対象とした制度であることや、運が絡む制度であることを踏まえることを、万人に対しての支援策とは到底言えない状況です。
社会人大学生・社会人大学院生という選択肢
社会人に対する門戸は開かれつつある
一旦大学進学や大学院進学を諦めた人が、大学に二度と入れない訳ではありません。
そのような人でも、「社会人大学生」「社会人大学院生」という選択肢を取ることができます(まぁ大学院生のやる研究は実質社会人と変わらないので、自分は社会人大学院生という呼び方があまり好きではなかったりするのですが)。
要は、社会人として昼間は働き、夜間や休日を使って授業や研究活動に従事し、単位取得や学位論文執筆を行う、ということです。
社会人大学院生に関しては、近年多くの大学で受け入る体制が整備されてきています。
リカレント教育という言葉を最近少しずつ聞くようになったかと思いますが、少しずつ大学での学び直しの門戸は開かれてきているのです。
“通信制大学” という手段-学費の安さは随一-
「自分の周囲には大学や大学院がない!!」という人でも、まだ手段はあります。
それが通信制大学に通う、ということです。
通信制大学では、通信授業を通して単位を取得し、大学卒業資格や修士号・博士号の取得を目指します。
インターネット様様ですね。
通信制大学の代表的なものとしては、放送大学があります。
放送大学の良い点として、学費が他の大学よりも安いことも挙げられるでしょう。
また、学部を4年で卒業しなければいけないということもないので、自分のペースに合わせて単位を揃えていくことができます。
社会人として働きながら、通信制大学で学ぶという選択肢は、大いに検討に値するのではないでしょうか。
大学は教育・研究・学問の場
ここまで金銭面における大学進学への障壁や社会人大学生・大学院生といった進学手段について述べてきました。
ここで、少しちゃぶ台をひっくり返して、「そもそもどうして大学に行くのか??」という話をしようと思います。
大学には、社会の目から見たときに、大きく分けて3つの役割があると考えています。
- 教育の場
- 研究の場
- 学問の場
の3つです。
上2つは多くの人がイメージするでしょうが、3つ目の「学問の場」というのはイメージがない人や研究の場とどう違うのか?という人も多いと思います。
順に説明していきましょう。
1.「教育の場」としての大学
「高校の延長線上で、社会に出る前の教育機関」
このようなイメージを、大学に対して持っている人も多いのではないのでしょうか。
そして、これは近年社会が大学に対して求める比重が大きくなってきた役割でもあります(キャリア教育の強化の要請など)。
実際、単位を得て卒業資格を得るための「教育の場」という側面は確かにあります。
また、大学教員の給与が大学での教育活動という名目で支払われている以上、「教育の場」としての役割があることは明らかです。
また、教員免許や学芸員などの資格の取得や、司法試験・医師国家試験の受験資格を得ることも、「教育の場」としての大学によってなされることであると言えます。
2.「研究の場」としての大学
研究機関としての大学ですね。
これは主に大学院としての大学が担っている役割だといってもよいでしょう。
大学院で行われている研究は大きなインパクトを与えるものも多く、また社会においても研究の中心的役割を担っていることは言うまでもないでしょう。
3.「学問の場」としての大学
これが一番イメージが付きにくいのではないでしょうか。
「学問に触れることができる場」「学問的な対話や議論をする場」としての大学です。
「学術の場」「教養の場」と言い換えても良いかもしれませんね。
大学は社会のなかで、学問に触れる・アクセスすることのできる土壌・風土がある場として存在しています。
一般の人でも無料で大学の講義は聴講できますし、学問に関するシンポジウムやセミナーが大学で行われていることは多いです。
また、これは大学の風土によるところも大きいですが、学問的な対話を行う場として大学はその役割を担ってきました。
抽象的な問いや社会問題、自然科学の神秘の探究などを語りあうことができるような場として大学は存在してきました。
大学という場で様々な問答が行われ、思索が行われてきました。
このような場としての大学が社会に直接的な経済的利益を与えるわけではありませんが、社会を豊かにするために大学の担う重要な役割の1つであり、大学進学においてこのような役割を大学に期待している人も少なくないはずです。
大学の役割をどのように代替できるか
大学の役割を語ったのだから、大学・大学院に行けない人がどうやってどうやってそのような活動ができるのか、ということを話さないといけませんね。
はい。ということで話していこうと思います。
1.「教育の場」の代替-通信制大学・学習コンテンツ-
単位や卒業資格、また大学で得られる資格を得られる場として、通信制大学が挙げられます。
もちろん、全ての資格を通信制大学で得られるわけではありませんが、大学教育に多くの人に期待されている学位は取得できますので、代替手段として挙げることができるでしょう。
また、資格を得ることにこだわらなければ、世の中にある学習コンテンツを利用して学ぶことは十分可能であり、「教育の場」を代替することは可能でしょう。
2.「研究の場」の代替-通信制大学・企業・個人的趣味-
先ほど教育の場の代替として通信制大学を挙げましたが、「研究の場」の代替としても通信制大学が挙げられます。特に、通信制の大学院は研究の場を代替できる場でしょう。
また、理工学系の企業で多い選択肢にはなると思いますが、働く中で製品開発などに関わる研究を行うことができる可能性は一定存在していると思われます。
また、市民科学というような言葉があるように、個人の趣味として研究活動を行っている人もいます。
しかしながら、市民科学を支える枠組みは乏しく、「研究の場」として捉えるには不十分と考える人もいるかもしれません。
3.「学問の場」の代替-コミュニティ-
「学問の場」の代替として期待されるのは、やはりコミュニティでしょう。
学問的な対話を目的としたコミュニティは、小規模なものを含めると、実は相当数存在しているのではないかと考えています。
最近オンラインコミュニティが急激に増加していますが、学術的な交流を目的としたコミュニティも存在しています(自分もそのようなオンラインコミュニティに所属しています)。
そのような場は大学における「学問の場」の代替となりうる場ですし、今後発達していく領域ではないかと考えます。
ただ、大学にもそれぞれの風土がありそれが学問的な場を支えているのと同様に、コミュニティにも学問的な場を支える風土が不可欠でしょう。
大学での全ての場を代替できる場が存在しているわけではない
ここまで何が大学の代替になりうるのか、という話をしてきました。
しかしながら、大学の全ての役割を代替できている訳ではありません。
「研究の場」というのは、どうしてもそこにいる人や積み上げ、資金によってその質が変わります。
「学問の場」も同様に、風土や文化ともいえる、そこにいる人達や過去からの積み上げによってその性質が大きく変わります。また、その場で話すことのできる人そのものにも影響を受けるでしょう。
このような点からも、やはり「大学・大学院に行く」ということにメリットがあるのは事実ですし、そこでしか得られない学びがあることも事実です。
自分が大学院進学を(一旦)諦めた理由
ここからは少し自分のことについて語りましょうか。
自分は今大学院生の修士課程(前期博士課程)2年で、博士課程(後期博士課程)に進学するのか、就職するのかの選択を迫られることになりました。
結論としては、自分は就職を選びました。
理由はかなり複合的であり、その全てをここで書く訳にはいきませんが、やはり金銭的な問題というのは大きかったです。
自分は、博士課程に進学するなら大学院を変えようと考えていました。
理由としては(これもいくつか複合的な理由があるのですが)、1つには自分の興味が移ったことにあります。
自分は現在、バイオメカニクスという分野で、細胞のメカニズムの一端を解明するために実験を行っています。
もちろん、現在の研究の面白さはあるのですが、しかしながら自分の興味が「人の行動の変化」「社会の変容」といったものへと移っていき、数理生物学(進化ゲーム)や数理社会学の方へと変わっていきました。
そうなると、大学院を変える必要があるわけでして、自分が本当にやりたいことをやるには関東の大学に行く必要があったわけです(※現在は関西居住)。
そうなったときに、金銭的に余裕があるのか、と考えたときに、使える様々な制度を検討したうえで可能ではあるが厳しさはあるな、という結論に至りました。
また、分野を変えて博士号を取るとなると、他の人が5年かけて探求しているものと同等の成果を3年で出す必要があります。
興味の対象としてドストライクであれど、手法や分野が変わってその分野を網羅的に学ぶことができるかどうかというのはかなり怪しい部分がある、と感じたので、このタイミングでの博士課程進学は諦めることにしました。
学問を諦めた訳ではない
とはいえ、自分は学問を諦めた訳ではありません。
「いつかは博士課程に」という思いはありますし、実際そのための準備は社会人として働きながら行うつもりです。
放送大学の大学院に入って、将来的に行きたい分野に必要な知識やスキルの習得、そして研究を行うことも検討しています。
また、同時に、個人として研究活動を行っていくことのできる体制や制度作りも模索しています。
大学以外での学問の場を創出することも視野に入れていこうと思っています。
『学問をするのに、場所や身分は関係ない。学問の前に、人は全て平等だ。』というのが自分の考えですし、やりようというのはいくらでもあると思うのです。
こんな感じのアンサー記事でした。
是非感想や聞きたいこと・相談があればコメントやDMくださいね!!
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