「営みとしての科学」からの科学教育の可能性

tsuyoshiの頭の中

どうも、下平剛司です。

1年ぶりくらいにこのページで記事を書きます。

さて、久々に記事を書くきっかけになったのは、理科教育AdventCalendar2021(リンクはこちら)です。

こちらの企画は12月1日から25日にかけて毎日個人 or グループで理科教育に関心のある学生,学校教員,学芸員,研究者などの記事を投稿していく、というものです。

今回、縁あってこちらの企画に参加することになり、筆をとりました。

 

書くことを決めてから「何を書こうかな」と考えていたのですが、様式やテーマが決まっている訳でもなく、また論文でもないので、いっそのこと自分がいま考えていること(悩んでいること)をエッセイ的に書いていこうかな、と思います。

あえてテーマをつけるなら、「科学は何を足場にして捉えられ得るか」ということになるかな、と思います。

では、さっそく内容に入って行こうと思います。

 

「科学は役に立つ」という足場の不確かさ

「社会のための科学」という考え方

科学を語る時に、「科学は社会の役に立つから重要だ」という言葉をよく聞きます。

この言葉は間違っている訳ではなく、近代文明の発達には科学の発展が欠かせなかったことは事実でしょう。科学によって、私たちは物質的な豊かさを手に入れたと言えるでしょう。

このような認識は社会の中で共有されているものであり、国家/経済の発展のための科学発展やイノベーションを標榜している様子はよく見聞きするのはないでしょうか。

 

また、科学の発展によって形成された現代社会を維持・発展させるために科学を理解した人材(科学的技能を習得した人材、”科学人材”)を育成する、ということが重要なのも理解できます。

このとき、”科学人材”を育成することの意義、つまり科学教育の意義は、社会の発展のため、というところに足場を置くことになります。

 

社会の不安定さと科学教育の足場の不安定さ

科学による発展が実感できているような社会であれば、前述のような科学教育の意義は広く社会の中で了承されるでしょう。

しかし実際には、社会は時に予想もできない変化や停滞を伴います。

時には、科学の発展が社会の発展をもたらす訳ではない、という風潮が起こることもあるでしょう。

このように科学の発展による社会の発展が疑われることは、ひいては科学教育の足場の一角が揺らぐことと同義であると言えるのではないでしょうか。

 

そこまでは行かなくても、社会が変化することによって求められる”科学人材”が変化することはよくあります。となると、元の社会を根拠とした科学教育や”科学人材”の育成は、その足場の一部を失います。

社会が一定ではない不安定(不定)のものであるからこそ、それを足場として意義付けされた科学教育もまた不安定(不定)のものであると言えるのではないでしょうか。

 

こうなると、社会の中で科学教育の意義付けをし続けることが必要となってくると言えます。しかし、足場の不安定さを抱えながら学問としての知を蓄積することは、ある種の脆さ・危うさを内包しているように思えるのです。

 

「社会」以外に科学教育は拠って立つことができるか

科学に連関した人の営みを考える

社会的意義を足場とした科学教育の意義付けが不安定だとしたら、他に科学教育の拠り所となる足場はどのようなものがあるのでしょうか。

そのアプローチの可能性は2つあると自分は考えます。

1つは社会の不安定さや変化の中においても普遍的な社会や科学の在り様を探り、それによる科学教育の基盤を提唱すること、もう1つは社会的意義以外を基盤とすることです。

 

ここでは、後者の可能性について考えていきたいと思います。

つまり、科学的知識や科学技術、科学的産物といった科学の物質的な寄与以外に視野を広げるということです。(科学の物質的な側面はどうあっても社会に織り込まれているので)

科学の物質的な側面以外を考えるとき、思い付くのは科学による精神的な寄与でしょう。

科学による精神的な寄与となると、科学に関する概念の寄与や自然・現象に対する好奇心などが挙げられると思います。

 

このような科学における精神的な寄与は私たち人間にどのように関わってきたでしょうか。近代科学の形が整う以前から、形は違えど人類はこのような科学に連関する営みを行ってきたはずです。

 

言い換えれば、「なぜ科学やそれに連関した営みを人類は続けてきたのか」という問いをここで導くことができるのではないでしょうか。

この問いを更に考えていきましょう。

 

自然現象の理解を試みる営みは、すなわち自分たちが生きる世界を理解する営みであったことが言えるでしょう。言うなれば、「世界を理解する営みとしての科学」です。

これは生活の実用的な観点はもちろん、宗教などの精神的な側面からも行われてきた営みでしょう。

 

もう1つには、科学に連関した営みは、仮説や仮定を立てて検証を試みることでしょう。

その際、その時点においては確かめようのない事柄を仮定し、時にはそれらを統合します。その仮定や統合は人間の頭の中、想像力によってなされています。言うなれば、「想像力を喚起する営みとしての科学」でしょうか。

 

これら2つの「営みとしての科学」について、より思索を進めていこうと思います。

 

「営みとしての科学」が与え得る科学教育への足場はどのようなものか

「世界を理解する営みとしての科学」「想像力を喚起する営みとしての科学」はどのような科学教育への足場を与え得るのでしょうか。(あるいは与え得ないのでしょうか。)

 

まず、「世界を理解する営みとしての科学」から考えていこうと思います。

ここで、営みによって理解が試みられる対象が、社会のみでなく世界であることに着目しようと思います。

 

先に述べたような、科学教育の基盤を社会的な意義に求めるとき、その理由として社会の在り方を理解する、ということは言われます。

それに対し、ここでいう世界は、社会よりも包摂したものであると言えます。

世界は、社会限らず、自然環境や生態系、時には”神”のような人間の認識に収まり得ないもの存在も含めた、人間自身の存在を取り巻くもののことです。

このような世界について、「科学」という視点から理解を試みる営みが「世界を理解する営みとしての科学」と言えるでしょう。

 

このように書くと、ある種宗教的に聞こえる部分もあるかと思います。

実際、今日において、科学と宗教は分離して考えられる理由の1つに、宗教性を排除するためというものは存在します。

ただし、科学において信仰が全くないかというと、それはNOでしょう。

例えば、「科学は未知の事柄を発見する営みである」「科学によるイノベーションは人類を発展に導く」といった科学観を支持することは、現代社会において比較的多く見られる科学に対する信仰である、ということができるでしょう。

とすると、「世界を理解する営みとしての科学」とは、「手の中に収まらないものを含めて世界を捉え、そのような世界の存在そのものを”信仰”し、またそれを理解しようとする営み」と言い換えることができるでしょう。

そして、そのような営みを通して、世界を理解しようとすること、ひいては自己と世界の接続性を感じようとすることは、人としての豊かさのために必要なことなのではないでしょうか。

 

自己と世界との接続性は、現代社会の中で希薄になっていることはおそらく事実でしょう。

個人が個人として生きることが赦されるようになる一方で、個人のアイデンティティの崩壊も起こっています。

そのような中で世界という全体との接続性を取り戻すことは、個々のアイデンティティをつなぎ留める役割があると自分は考えています。

そうなると、現代科学の発達によって失われた自己と世界の接続性を、現代科学の枠組みの中で再考することは、人の精神的な豊かさを考え直すという点で意義があるのではないでしょうか。

 

次に、「想像力を喚起する営みとしての科学」を考えていこうと思います。

想像力は科学以外の文脈でも発揮されるものですが、科学に連関した営みの中でも発揮されるものです。

それは前述したような仮説の立案・検討の場面でもそうですし、もっと日常的な類推の場面でもあり得るでしょう。

もっと言えば、「世界を理解する営みとしての科学」においても、想像力は喚起されています。

 

こう考えると、想像力という対象が喚起される場面が多過ぎて、あえて「科学教育で」想像力を考える必要があるのか、という問いはあるでしょう。

現代社会の中で科学が文化に浸透していることを考えると、科学のみによって想像力が喚起されることはなくても、完全に科学を切り離して想像力が喚起されることはほぼないはずです。(科学と関係の内容な事柄に対する想像力の場合でも、その源泉となる状況や価値観に科学が全く関わっていないことはほぼないでしょう。)

そうなったとき、科学に連関される想像力との付き合い方を考える、というのは科学教育の役割であるかのようにも思えます。

加えて、科学の発展において不可欠な役割も果たす、思想の内的な統合は想像力の賜物であり、科学教育の対象とする理由になり得るのではないでしょうか。

 

精神的な観点から想像力を捉えた時、想像力が人間の精神的な豊かさに関与していることは疑いようもないでしょう。フィクションなどは、想像力が人間を精神的に豊かにする例の1つだと思います。

一方で、想像力の欠如が時に不幸をもたらすことも、同意が得られると思います。

 

このとき、科学に連関した営みによって、喚起される想像力の幅を拡張することや、あるいはその想像力と折り合いをつける方法を考えることは、科学教育の足場足り得るのではないでしょうか。

 

人間の精神性と科学教育の可能性

この記事の中で考えた、科学に連関した「世界を理解する営み」「想像力を喚起する営み」はどちらも人間の精神性に関係するものです。

振り返ると、「人間が精神的に豊かになる」という観点から科学教育の足場を考える、というのが、この記事の中で行ってきたことでした。

道徳の領域のように思えることでもありますが、科学に連関する営みが人間の精神性の豊かさに関係する以上、完全に線を引くこともまた違うのではないか、と思います。

 

また、人間の精神性を考えるときにも、社会の影響を排除できないということもまた事実です。

もちろん、人間の在るべき姿や精神性を考えるとき、社会の在り方を含めて人間の在り方を考えることもあります。

しかし同時に、社会に依らない人間の在るべき姿についても考えざるを得ないはずです。

そのような社会に依らない人間の在るべき姿を考えようとすることで得られた知は、普遍的に存在しうるものであり、それを足場にすることで社会の不安定さによる科学教育の足場の不安定さは多少回避されるのではないでしょうか。

もちろん、このような足場も、社会的意義という足場とはまた違った脆さ・危うさを抱えているとは思います。

ただ、”人が善く生きる” という、どの時代においても変わることのない切実な要求に対してどう応答できるのか。

このような観点から、科学教育の意義付けを行うことは、社会的意義のように明瞭ではないけれども、確かに存在し得る科学教育の足場となり得るのではないのか、と最近考えを巡らせているのです。

 

あとがき

今回「理科教育に関する内容」というお題で記事を書くにあたって、どのような内容を扱うのかはかなり悩みました。実際、自分の手元に紹介できるような研究や実践の例がほぼなかった、というのも悩んだ原因の1つです。

せっかくなので、論文のような形式では書きづらいような内容に挑戦しよう、と思いました。

科学教育に限らず教育に関する規範に近い話は個人的に扱いづらいと感じているところです。ですので、この記事を書いて公開することに、ある種の怖さはありました。

しかしながら、論文や論考という形になる前段階での悩みや思想を真摯に書き残しておくことは自分にとって意義のあることであるだけでなく、研究の背後にある姿や思想に触れていただく機会になると思い、今回の記事を書きました。

(実際、記事が後半に進むほど、曖昧さや自信のなさが伺えるかと思います。)

 

今回の記事は科学教育や理科教育について何か学問的な貢献をするようなものではなく、一種の教育論を出ないものです。

なにより、記事を書き終えてより一層悩みが深まった、というのが正直な感想です。現状の精一杯だとも言えます。

ただ、今現在自分がこのような地点にいることを記して、この記事を終わろうと終わります。

是非みなさんの忌憚ないコメントや意見をいただけると幸いです。今後も精進します。

コメント

タイトルとURLをコピーしました