2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。
ここ数日、メディアやSNSを通して、様々な実態や人々の反応の様子が報道されている。
これらの報道の中で自分は悲しみの感情を抱くだけでなく、自分自身が改めて内省して考えたことも数多くあった。
このブログの場では、反戦の意を表明するとともに、自分自身の内省を記録・紹介する。
ここ2・3日の内省なので、内省した事柄全てを体系づけて考えたり、先人の言葉や知見を踏まえた文章を書いたりすることは、残念ながら不可能である。大量の情報の中で、何を真相かと判断しきることも、自身の能力の限界を超える。
ただ、それを差し置いても、このタイミングで感じた思考・感情を鮮明なうちに記録することに価値があると判断し、筆を執っている。
もちろん、SNSを通して反戦の意を表明することは可能であるし、表明している。
だが、このような状況で、個人が何を感じたのか。思考の過程・論理と共に記録することは、市民として、科学者として行っておくべき行為であると感じている(少なくとも自分は)。もしかしたら、後の検証や思考の材料にもなるかもしれない。
このような個人の媒体で記録を残せる時代を嚙み締めつつ、文を進めようと思う。
①人倫の名において、自分は戦争に反対である
戦争が外交の手段として”ある”ことは、以前から認識していた。
だが戦争が始まってみて、改めて「戦争」の現場や自分が戦争に参加することを仮定して想像すると、以下のようなことを思った。
自分が人を殺すことを想像できない。したくない。
目の前で人が殺される場面を見ていられる気がしない。
人を殺す引き金を引いた罪悪感に耐えられる気がしない。
この残酷な行為を行う側に立つことも、行われる側に立つことも、どれを想像しても自分は拒否する感情しか湧かないのだ。
ましてや、戦争は国家規模の暴力だ。報道で知らされる「○○人死亡」というのも、単なる数として扱われている。そこに個人の顔はない。
爆弾のような、対面でなく人を殺す手段もあるが、そのような手段を指して思う事は「残虐」の一言しかない。
そのような行為は、自分の感情全てが受け入れない。
それは自分自身が「人」であるための不可欠な要素であり、その理由は人倫的な理由にしか求めることができない。それ以上でもそれ以下でもない。
「人」として在るための誇り、と言い換えてもいいかもしれない。
それほど、反戦意思が自分の中に当たり前に内面化されていることを改めて認識した。
②戦争が始まる時の自分自身への実感のなさ
自分が開戦を知ったのは、理系とーくラボというコミュニティでのSlackでの投稿がきっかけであった。
普段のSlackへの投稿と同じように投稿されたのだ。
その投稿を元にネット記事を検索し開戦の事実を確認したが、その重要さは頭では理解しつつも、実感としては驚くほどないものだった。普段Twitterで流れるニュースを見ているのと同じ感覚に近いものがあったと言ってもいい。
これほど実感がなく戦争は始まるのか。
そう感じざるを得なかった。
その後も、自分自身のここ数日の生活に変化があった訳ではなく、先週と変わらず仕事をして食事をしている。
日常への変化は驚くほどない。せいぜい、物価が上がるかも、というところくらいにしか想像力が回らない。その程度にしか、自分の日常生活への影響を考えられないのだ。
※自分はテレビを持っていないので、情報収集手段は職場の新聞(平日の昼休みに読んでいる)、Twitter、ウェブ検索に限られる。この環境要因も影響しているかもしれない。また、住んでいる地域も三重県の度会郡という場所であり、公共の情報にも接点が薄い地域に居住していることも関係しているかもしれない。デモを実施している場所をこの目で見ることも、訴える先もないような地域なのだ。
③反戦意思と愛国心
Twitterでは、今回の開戦に紐づけて、日本国憲法第9条に関して意見を述べている投稿も見られる。
中には、日本の軍備の拡張や軍事行為にまで言及するものも少なくなく、その理由を日本の防衛のような愛国心的な要因に求めているものもある。
(以前からあった意見ではあるのでこのような声が挙がることは当然ではあるのだが。)
これらの意見を見て、ここでの「日本の防衛」というのは「日本の国土の防衛」という言葉に言い換えられるように自分は受け取った。そして、確かに、それが国を愛する気持ちの1つの形であることは間違いないだろう。
そう考えた時に、以下のように言えるのではないだろうか。
あらゆる事由があっても、人倫的な理由をもってして、日本から仕掛ける戦争の意思を放棄する。
外交のカードとして軍事があることを認識したうえで、勇気をもってそのカードを放棄する。
それが日本国憲法第9条に込めるべき理念なのではないだろうか。
第二次大戦の凄惨な経験を持つ日本という国で、少なくとも今の日本は戦争という手段は選ばない。そして、そのような日本に根付いた精神を自分は存外誇りに感じているのだと思った。
日本という国が持つこのような文化・規範を自分は愛するし、それを以てして愛国心ということに、なんら矛盾はないと思った。
④「反戦の意思表示」に対する嘲笑・冷笑について
SNSで反戦の意思を表明する人は多数いる。これによって、人びとの戦争への意思が可視化され、多くの人々の間に拡散・共有されている。
これは、過去の大戦とは大きく違う点であろう。
ただ、その中で「反戦の意思表示」への嘲笑する・冷笑も見られる。
自分の中で反戦の意思が人倫的な理由に基づく以上、この嘲笑・冷笑に対する理由も人倫に基づく。
そしてそれは、「恥を知れ」というものだ。
反戦の意思表示に対する嘲笑・冷笑は、反戦意思という人倫的な認識に対する嘲笑・冷笑である。この反戦意思を支えている人倫的な認識は、我々が「人」であるための要素であり、それに対する嘲笑・冷笑は人権意識に対する嘲笑・冷笑であるとしか思えない。
そのような反応があること自体が嘆かわしいし、それに対する反応は「恥を知れ」という言葉でしか、現段階では言い表し得ない。
⑤科学と平和の関係性
科学は平和にどう貢献しうるのか。
日本版AAAS設立委員会の企画したイベントで数回に分けて「100年後の未来を考える」ワークショップを行い、参加する中で、100年後にありたい未来として「平和」の希求が見られた。
これもあって、科学と平和の関係性は考えざるを得ない事項として自分自身に降りかかってきた。
悪意をもってすれば、全ての科学や技術は平和を脅かす。
かといって、科学や技術が人類にもたらす正の側面も大きい。
であれば、問い自体を以下のように少し言い換える必要があるかもしれない。
「平和のための規範を共有するために、科学的な営みや行為・科学への認識はどのような役割を果たすことができるのか?平和のための規範に繋がる科学的認識をどのようにして育み涵養することができるのだろうか?」
平和のための文化と科学的な営み・科学における精神をどう結び付けることができるのか、は今後の課題として考えて生きたいと思った。
⑥市民として科学者は何を行うべきか
非常事態において、科学者は度々その役割を問われる。
もちろん、今回の戦争に関する事柄について研究している科学者の方々には、現状の分析や歴史的な検証を期待している。
一方で、自分のような、他分野の市民科学者はこのような場で何を行うことができるか。
科学者の専門的知識を提供するだけが科学者ではない。
科学者の権威の元に意見を提供することだけが科学者でない。
市民の側に立って、市民の視点で記録を残すこと。
これが、市民科学者として自分ができることであると思う。
そして残すべき記録は、事実だけではない。感情や思考の過程も、検証の材料となり得ることを私たちは知っている。
だから、しっかりと記録を残す。
これも科学的営みへの貢献であり、科学的な知性を持った人間が行う事ができる、1つの貢献であると考えている。
(本記録が後に資料として使用されるかは考慮する必要がない。なぜなら、それは後に判断されるのだから。意味がないと冷笑する意見に考慮する必要はない。なぜなら、それは後に判断されるのだから。)
記録の小括りとして
ここまでの事柄が、2022/2/24から2022/2/26までの三日間で考えたことである。
(投稿日は2022/2/27だが、2/26時点で予約投稿している。)
論理的にまとまっていない内容ももちろんあるが、それも含めてありのままの思考の過程を示すことを重視した。
今後の事態の成り行きによっては、また何らかの記録を残そうと思っている。
繰り返しになるが、今回筆を執ったのはある種の使命感にかられたからである。
それは⑥の項目で述べたように市民科学者としての意識はもちろんある。
ただ、それだけではない。このような事態において、何も行わなかった人間でありたくない。このような事態から何も考えなかった人間でありたくない。無力感の中にあっても、将来の自分に顔向けできるような人間でありたい。
こんな感情を併せ持ちながら書いている。
今回の記録はこの辺りで終えようと思う。
平和を願って。
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