PISA2018の結果が報道されたり、自治体の判断で学校現場に変形時間労働制を導入できる法案が可決されたりと、教育に関する様々なニュースが出てきています。(これらについての記事は別でまた書こうと思います。)
このような中で、様々な人が学校教育の変革に取り組もうとしています。様々な意見はあれど少なくとも、「今の学校現場のままではよくない」という点では共通しているはずです。
にも関わらず、あまり話がかみ合っていないのが現状です。今日はその理由を少し考えていこうという話です。
よく言われるのは、財務省の成果の求め方が教育というものに適したものでないということ。確かにこれはそうなのですが、今回の記事ではおいておきます。
今回の記事では、その原因の1つとして自分が考えている、教育現場への関与の仕方として「大きな政府」を目指すのか「小さな政府」を目指すのかという点を曖昧にしていることを取り上げようと思います。
今回の記事は議題提起みたいなもので結論はありませんが、なぜその議題提起をするのか?というところに着目して読んでみてください。
学校行事や給食・制服はいる?いらない?
学校行事は本当に必要?さまざまな議論
学校においてはさまざまな行事があります。
学園祭や運動会(体育祭)、合唱コンクールをはじめ、遠足や修学旅行、校外学習などです。
これらの行事は、(現場でどのような意図で運用しているかは分かりませんが)子どもたちへ様々な経験の機会を提供し、子どもたちの成長に繋げることが根源的な目的でしょう。
これらの行事を行うことについて、本当に子どもたちのためになっているのかという点からその意義を見直すべきという意見はもちろんあります。それこそが本質部分に対する問いです。
ですが、ここではこれらの行事が全て子どもたちのためであると仮定したうえで話を進めます。
これらの行事が子どもたちのためであるとしても、それを学校が行うべきなのか、個人でやればいいのではないかという疑問は依然として残ります。
理由として、「学校なんだから」やるべきだ、という意見もある一方で、「学校なんだから」そこまでやらなくてもいい、という意見に分かれると思います。
後者は、親や民間の団体が子どもたちが様々な場所に取り組む場を用意するから学校でやる必要がないという意見です。
ここで分かるのは、「学校」というものが果たす役割の捉え方がそもそも人によって違うということです。それも、社会的にどのような役割を担うかという点においてです。
給食や制服はいる?
さて、同じように必要かどうかを議論されるものとして、給食や制服が挙げられるでしょう。
みなが同じものを食べたり着たりする必要はない、それぞれが自由にあるべきだという意見もあります。
一方で、給食や制服は校内において子どもたちの経済格差をなくす役割を担っているという意見もあります。給食は何らかの事情で満足に食事をとれない子でも食事ができる場と捉えている人もいるでしょう。
また、制服を買えるかどうかが問題だという意見もあります。それについての意見として、バザーなどで使わなくなった制服を買えない人に譲り渡す制度を作って対応すればいいという人もいます。
あるいは、給食や制服は国や地方自治体が全額保障すべきだという人もいるでしょう。
ここでも見えてくるのは、給食や制服といった社会保障的な側面を持つ教育現場の部分においても、「誰が」それを行うべきなのかという点に対しての意見がバラバラだということです。
教育現場への関わり方としての「大きな政府」と「小さな政府」
ここで考えなければいけないのが、「大きな政府」と「小さな政府」という考え方です。
それぞれを簡潔に説明していこうと思います。
「大きな政府」では国や自治体が社会保障の大部分の面倒を見ます。
「小さな政府」では社会保障は最低限にして、多くの機能を民間に譲り渡そうとします。
「大きな政府」と「小さな政府」には費用面や税制的に大きな違いがあり、「大きな政府」を実現する方が多額の費用が必要であり、税率が高くなります。
「大きな政府」の国の例だとフィンランドやフランスが挙げられ、「小さな政府」の国に例だと日本や韓国、スイスが挙げられます。
さて、日本の教育現場ではどちらが適しているのでしょうか?
行事などの機会を学校で確保してそこにお金や労力を費やすという役目を学校が担うべきなのかどうなのか。
志向する「政府」の大きさによって、その意見は変わります。
ちなみに、現場の負担が大きいからやめる、小さいからやるというのはここでは理由になりません。
なぜなら、負担が適正でないというのは今の”大きさ”が目指しているものに対して適していない、とまず考えるべきだからです。
学校教育において先ほど「無くてもいいかもしれないもの」として挙げた行事や給食などはどうでしょうか?
これらは民間の企業や個人でもできる、つまり「小さな政府」的な学校現場を志向することが可能なことです。
果たして、それは日本の学校現場に適しているのでしょうか?
これを議論するためには、そもそも社会保障や学びの平等性・公平性はどのように担保されるべきか考えることが必要だと考えます。どこまでが政府として最低限保障すべきで、どこから先を民間が担うべきなのか。それが、教育において「大きな政府」「小さな政府」のどちらが適しているのかを考えるということです。
これを考えずに、あるいはここが分からないまま話をしていても、水掛け論や感情論にしかなりません。
問題は複雑、だからこそ根本を考えよう
学校現場の問題は、しばしば「現場でどうか」という点にフォーカスされがちです。
しかし、現場で対処するだけではどうしても対症療法的になってしまいますし、そのキャパシティにも限界があります。
そうではなく、もっと根本的な部分で教育のどの側面を学校教育が担うべきなのか、という点を議論することが問題の解決には必要です。
社会制度はいきなり変えることはできないかもしれません。
ですが、社会の中でこのような話をすることが”当たり前”になること。これが第一歩なのではないかと信じています。
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